2012-01-11

Richard Ⅱ

Donmar Warehouse
2012年1月4日(水)19:30

2010年の年明け、小劇場好きの心のオアシス、Donmar Warehouse。赤と黒で塗りつぶされたポスターが印象的で、ストーリーも出演者もろくろく知らずに観に行った「Red (レッド)」で、アメリカ人画家、マーク・ロスコの弟子、ケンを演じ、リスのようにつぶらな瞳が妙に印象的だった少年(後で知ったがこのとき、彼は既に20代後半。恐ろしき童顔)、エディ・レッドメイン(Eddie Redmayne)。同作品でウェスト・エンドからNYのブロードウェイへ進出、そしていまや映画界でも注目株になってしまった彼が、再びドンマーに戻ってきた。Redを演出した同劇場の芸術監督、マイケル・グランデージ(Michael Grandage)が芸術監督としては最後に手掛けた作品「Richard Ⅱ(リチャード2世)」。タイトルロールを演じるレッドメインを小さなハコで見たさに、多くのファンがチケット争奪戦に加わり、あっという間にソールド・アウト。特に彼のファンというわけではなかったし、リチャード2世というシェイクスピア作品にも思い入れのなかった(と言うより知らなかった)私は、当然のごとく出遅れたわけだが、年末に幻のチケットとも言われた「Jerusalem」をゲット、続いて「Noises Off」の最後の一枚(その日の)を手に入れた私は、「きっとエディも観ることができる」と妙な確信を持って、オンラインのサイトを日々チェックしていたところ、リターン・チケットをゲット。おまけにストール。演劇の神様、ありがとう。

開演20分前くらいに劇場に着くと、既に多くの人たちがバーでお酒を飲んでいる。この劇場は全体的にとってもこぶりなので、バーも小さく、飲まない人間の居場所がない。それでさっさと席につこうと思いきや、スタッフがまだ客席には入れないと言う。何でも15分前になるまで入れないということで、行き場を失った観客たちとともに所在なさげにウロウロしていたら、しばらくしてやっとオープン。入ってすぐに15分前設定に納得してしまった。ひんやりとした舞台上には、既にレッドメイン、もといリチャード2世が王座に着いて瞑想している。芝居が始まるまでの15分間、まんじりともせず、レッドメインは静かに静かに、王冠を頭に戴き、王笏を手に座している(確かにこれを30分続けることは不可能だ)。時代の年輪を刻んだ木の壁がシンプルながら印象的な、2階建ての舞台装置。ロウソクがいくつも灯されていて、冷たい空気とともに、その独特な匂いが、古い大聖堂にでも入り込んだかのような幻想を抱かせる。正直、芝居が始まる前からこの雰囲気に完全にのめり込んでしまった。

ごくごく簡単にストーリーをまとめると、神の化身である王の尊厳を何より尊ぶリチャード2世が、従兄弟のボリングブルックと貴族のトマス・モーブレーの諍いを裁定し、前者に6年間の追放を、後者に永久追放を命じる。ボリングブルックが不在中に、王の叔父にしてボリングブルックの父であるランカスター公の死去に伴い、リチャード2世がその財産を没収したことからボリングブルックが激怒。兵を率いてイングランドに帰国し、王に退位を迫る――といった感じで、筋だけ見れば、やはりさほど興味深い作品ではない。でも、とても面白かった。実はロンドンに来てからというもの、シェイクスピアの英語の難しさに辟易していた私は、本場にいるにもかかわらず、恥ずかしながらそれほどシェイクスピア作品を楽しめていなかったのだが、この作品はすっと心に入ってきて(たとえセリフで理解できない部分があっても)、ときに笑い、ときに悲しさを感じながら鑑賞できたのだ。

シェイクスピアに関しては全くの素人と言っていい人間があれこれ偉そうに述べるのも何だが、そうやって楽しめたその一番の理由は、役者陣の声と滑舌の良さ。まず、主役のレッドメインが、想像していたよりずっと朗々とした美しい声の持ち主だったのが嬉しい誤算。周りを固める役者たちも、ボリングブルック役のアンドリュー・バカン(Andrew Buchan)始め、誰もがシェイクスピアの言葉を自分のものにしていたように思う。

そして演出と舞台装置の美しさ。1幕の最後は、2階から両手をすっと差し出して、斜め上方を見上げるリチャード2世に白い光が当たって暗転。ここでは、レッドメインの顔がもともと骨ばっているのもあるが(爆)、精巧なデスマスクを見ているようで、神々しくも不吉な気配が漂う。芝居が始まる前の演出もさることながら、1幕目のリチャード2世は、とかく格式ばった立ち居振る舞いや言葉使いが多く、神の化身である王としての威厳をことあるごとに見せ付ける。だからこそ2幕目の、感情の発露を止めることのできない人間としてのリチャードの脆さ、切なさが心に響いてくるのである。各紙のレビューではレッドメインが美形すぎると批判(?)する意見もみられたが、私は個人的に、この華奢でチャーミングな俳優が、王という鎧でガチガチに身を固めた不完全な人物を演じたことは、この作品にとってプラスに働いたのではないか、というより、彼ありきの作品だったのではないかと思わずにはいられなかった。

ウェールズの海岸で、ボリングブルックの謀反を怒り、罵るシーン。目に涙を浮かべながら身の上を嘆き、弱気な言葉を吐いたかと思うと、次には居丈高な王の態度に戻り、そのまた次の瞬間にはどうしたら良いか分からず、右往左往する。昔、ケネス・ブラナーの「空騒ぎ」の映画に出演した某役者が、クローディオという役を「感情のローラーコースター」と表現していたが、そうした心の揺れ、弱さを、若きエディ・レッドメインは、全身で表現していたのではないだろうか。
舞台装置で白眉だったのは、ウェールズのフリント城でのシーン。城壁にリチャード2世とそのおつきたちが、その真下にボリングブルックら謀反人の一派が立って、会話を繰り広げる。城壁では温かい、黄みがかった照明が王たちを照らし、薄暗い階下では、真っ白で冷たい明かりがするどく謀反人たちを突き刺す――まるで宗教画やレンブラントの絵画を見ているような、美しい光景だった。
最後に一つだけ、どうでもいいことながら気になったことを。劇場が、本当に寒かった…。インターバルで、あの酒好きのイギリス人たちが軒並みワインじゃなくてホットコーヒーなんぞをすすっていたのだから、その寒さのほどが分かるというもの。ちなみに終演後は女子トイレに長い長い列が即座に出来上がっていた(笑)。

今年はワールド・シェイクスピア・フェスティバルが開催されて、イギリス中がシェイクスピアの舞台で溢れる年。そんな年を迎えたばかりのこのタイミングで、シェイクスピア作品の良さに今更ながら気づかされたのは、実に運が良かった。ぜひこれからも様々な演出、様々な役者を見比べてみたい。あとはエディ君、次はレミゼの映画でお坊ちゃまポンメルシーを演じることになったようだけれど、ぜひまた、舞台の世界に戻ってきてほしい。